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LbVO
恵帝紀
訳出担当 辰田 淳一
孝恵皇帝は諱を衷、字を正度といい、武帝の第二子である。泰始三年〔二六七年〕、皇太子に立てられ、その時九歳だった。
太煕元年〔二九〇年〕四月己酉、武帝が崩じた。この日、皇太子がすぐに皇帝に即位し、大赦を行い、改元して永煕元年とした。皇后の楊氏を皇太后とし、皇太子妃の賈氏を皇后とした。
夏五月辛未、武皇帝を峻陽陵に葬った。丙子、人々の位を一等、喪中の者は二等上げ、租と調を一年間免除し、二千石以上の者を皆関中の侯に封じた。大尉の楊駿を太傅として、政務を輔けさせた。
秋八月壬午、廣陵王司馬遹を皇太子とし、中書監の何劭を太子太師とし、吏部尚書の王戎を太子太傅とし、衛将軍の楊済を太子太保とした。南中郎将石崇、射声校尉胡奕、長水校尉趙俊、揚烈将軍趙歓を四方に派遣した。
冬十月辛酉、司空の石鑒を太尉とし、前鎮西将軍の隴西王司馬泰を司空とした。
永平元年〔二九一年〕(註1)春正月乙酉朔、朝廷に臨んで、楽を設けなかった。詔して言った。「朕はしばしば不幸に遭い、久しく嘆き憂いの中にあった。祖宗の偉大さに頼り、忠賢な者たちに助けられ、不肖なる朕は群公の上に託されることが出来る。朕は大道に暗く、訓に明るくなく、戦々恐々として、病気のように日夜恐れ慎んでいる。先頃迷い哀しんだときには、三事(註2)のために手足となって助け、ただ社稷の重みのみを思い、皇室を支える法に従い、なおも先代からの制度を長く謹んで行いたいと考え、これを以て永煕の年号とした。しかし月日は過ぎ、既に新年を迎えてしまったので、再度元号を改め暦を新しくするのは、これは古くからの礼に則ったものである。そこで、永煕二年を改めて永平元年とする」。また、子や弟や官僚たちに、陵に拝謁することを禁じた。丙午、皇太子に加冠し、丁未、太廟に拝謁した。
二月甲寅、王公以下に身分に応じて格差を付けて帛を賜った。戊寅、秘書監官を再び置いた。
三月辛卯、太傅の楊駿、楊駿の弟で衛将軍の楊珧、太子太保の楊済、中護軍の張劭、散騎常侍の段広、楊邈、左将軍の劉預、河南尹の李斌、中書令の蒋俊、東夷校尉の文淑、尚書の武茂を誅殺し、みな三族まで処刑した。壬辰、大赦を行い、改元した。賈后が詔を偽って皇太后を廃して庶人に落とし、金庸城に移し、天地宗廟に告げた。太后の母の龐氏を誅殺した。壬寅、大司馬の汝南王司馬亮を取り立てて太宰とし、太保の衛瓘と共に政治を輔けさせた。秦王司馬柬を大将軍とし、東平王司馬楙を撫軍大将軍・鎮南将軍とし、楚王瑋を衛将軍とし北軍中候を務めさせ、下邳王司馬晃を尚書令とし、東安公司馬繇を尚書左僕射とし、東安王に進めた。将侯に進爵されたものは一〇八一人を数えた。庚戌、東安王司馬繇と東平王司馬楙を解任し、司馬繇を帯方に流した。
夏四月癸亥、征東将軍の梁王司馬肜を征西大将軍・都督関西諸軍事とした。太子少傅の阮坦を平東将軍・監青徐二州諸軍事とした。己巳、太子太傅の王戎を尚書右僕射とした。
五月甲戌、毗陵王司馬軌が亡くなった。壬午、天下の家ごとの木綿と絹の物税を免除し、孝行で兄に従順な者、高齢の者、寡夫や寡婦、農業によく励んだ者に、帛を一人あたり三匹賜った。
六月、賈后は詔を偽り、楚王瑋に命じて、太宰の汝南王司馬亮と、太保の菑陽公衛瓘を殺させた。乙丑、汝南王司馬亮と菑陽公衛瓘をほしいままに殺した科で、楚王司馬瑋を殺した。洛陽で曲赦(註3)を行った。広陵王の師の劉寔を太子太保・司空とし、隴西王司馬泰を録尚書事とした。
秋七月、揚州・荊州の十郡を分割して江州を置いた。
八月庚申、趙王司馬倫を征東将軍・都督徐兗二州諸軍事とし、河間王司馬顒を北中郎将とし、鄴を押さえさせた。太子太師の何劭に豫州の諸軍事を都督させ、許昌を鎮させた。長沙王司馬乂を移して常山王とした。己巳、西陽公司馬再の爵位を進めて王とした。辛未、隴西王の世子の司馬越を東海王に立てた。
九月甲午、大将軍の秦王司馬柬が亡くなった。辛丑、征西大将軍の梁王司馬肜を衛将軍・録尚書事とし、趙王司馬倫を征西大将軍・都督雍涼二州諸軍事とした。
冬十二月辛酉、都で地震があった。
この年、東夷の十七国、南夷の二十四部がみな校尉を訪れて服従して来た。
元康二年〔二九二年〕春二月己酉、賈后は皇太后を金庸城で殺した。
秋八月壬子、大赦を行った。
九月乙酉、中山王司馬耽が亡くなった。
冬十一月、疫病が大流行した。
この年、沛国で雹が降り、麦を傷付けた。
元康三年〔二九三年〕夏四月、滎陽で雹が降った。
六月、弘農郡で雹が降り、深さは三尺にもなった。
冬十月、太原王司馬泓が亡くなった。
元康四年〔二九四年〕春正月丁酉朔、侍中・太尉の安昌公石鑒が亡くなった。
夏五月、蜀郡で山が移り、淮南と寿春で洪水が起こり、山は崩れ地は凹み、城府や人々の家を壊した。匈奴の郝散が反乱を起こし、上党を攻め、長吏を殺した。
六月、寿春で大地震があり、死者は二十余家に及んだ。上庸郡で山崩れが起き、二十余人が亡くなった。
秋八月、郝散が人々を率いて投降してきたので、馮翊の都尉が彼を殺した。上谷の居庸・上庸で地割れが起き、水が噴き出し、死者が出た。大飢饉が起こった。
九月丙辰、諸州の被災者を対象に赦免を行った。甲午、流れ星が東北から天に流れた。
この年、都や諸郡国で八度地震があった。
元康五年〔二九五年〕夏四月、彗星が西方で見え、その尾は奎から軒轅(註4)に到った。
六月、金城で地震があった。東海で雹が降り、深さは五寸に至った。
秋七月、下邳で暴風が起き、家々を壊した。
九月、雁門、新興、太原、上党で大風が吹き、稲の収穫に影響を与えた。
冬十月、武器庫が燃え、累代の宝物が焼失した。
十二月丙戌、新しく武器庫を建て、兵器を大々的に調えた。丹楊で雹が降った。都の宜年里で石が生じた。
この年、荊州・揚州・兗州・豫州・青州・徐州の六州で大水があり、詔して御史を巡行させ、施し貸し与えさせた。
元康六年〔二九六年〕春正月、大赦を行った。司空の下邳王司馬晃が亡くなった。中書監の張華を司空とし、太尉の隴西王司馬泰を尚書令とし、衛将軍の梁王司馬肜を太子太保とした。丁丑、地震があった。
三月、東海で霜が降り、桑や麦に被害が出た。彭城の呂県で、東西百余歩に渡って流血があった。
夏四月、大風が吹いた。
五月、荊州と揚州の二州で大風が吹いた。匈奴の郝散の弟の度元が、馮翊・北地の馬蘭羌・廬水胡を率いて反乱を起こし北地を攻め、太守の張損が死んだ。馮翊太守の欧陽建と度元が戦い、欧陽建は大敗した。征西大将軍の趙王司馬倫を車騎将軍とした。太子太保の梁王肜を征西大将軍・都督雍梁二州諸軍事とし、関中をおさえさせた。
秋八月、雍州刺史の解系がまた度元によって[軍を]破られた。秦州・雍州の氐・羌がことごとく反旗を翻し、氐の首領の斉万年を推して帝号を僭称し、涇陽を包囲した。
冬十月乙未、雍州と涼州の二州で曲赦を行った。
十一月丙子、安西将軍夏侯駿と建威将軍周処を斉万年追討に派遣し、梁王司馬肜を好畤に駐屯させた。関中で大飢饉と大疫病が起こった。
元康七年〔二九七年〕正月癸丑、周処と斉万年は六陌で戦い、晋軍は敗北し、周処は戦死した。
夏五月、魯国で雹が降った。
秋七月、雍州と涼州で疫病が流行した。大干魃が起き、霜が降り、秋の収穫に影響が出た。漢中で飢饉が起き、米十斗の値段は一万銭にもなった。詔して身内を売買するのを禁じないことにした。丁丑、司徒で京陵公の王渾が亡くなった。
九月、尚書右僕射の王戎を司徒とし、太子太師の何劭を尚書左僕射とした。
元康八年〔二九八年〕正月丙辰、地震があった。詔して穀物庫を解放し、雍州の飢えた人々に貸し与えた。
三月壬戌、大赦を行った。
夏五月、郊禖(註5)において、石が真っ二つになった。
秋九月、荊州・豫州・揚州・徐州・冀州で大水害があった。雍州は豊作だった。
元康九年〔二九九年〕春正月、左積弩将軍の孟観が氐を征伐し、中亭で戦い、これに大勝して、斉万年を捕らえた。征西大将軍の梁王司馬肜を録尚書事とした。北中郎将の河間王司馬顒を鎮西将軍とし、関中をおさえさせた。成都王司馬穎を鎮北大将軍とし、鄴をおさえさせた。
夏四月、鄴の人の張承基らが妖言を弄して勝手に官職の任免を行い、数千の郎党を集めた。郡県の役人が逮捕して、皆誅殺した。
六月戊戌、太尉の隴西王司馬泰が亡くなった。
秋八月、尚書の裴頠を尚書僕射とした。
冬十一月甲午朔、日蝕があった。都で大風が吹き、家を壊し木々を折った。
十二月壬戌、皇太子の司馬遹を廃して庶民の身分とし、彼の三人の子供を金墉城に閉じこめ、彼の母親の謝氏を殺害した。
永康元年〔三〇〇年〕春正月癸亥朔、大赦を行い、改元した。己卯、日蝕があった。丙子、皇孫の司馬盖が亡くなった。
二月丁酉、大風が吹き、砂嵐が起き、木々が根元から抜けた。
三月、尉氏で血の雨が降り、妖星が南方に見えた。癸未、賈后は詔を偽り、前皇太子の司馬遹を許昌で殺害した。
夏四月辛卯、日蝕があった。癸巳、梁王司馬肜と趙王司馬倫が詔を偽って賈后を廃して庶人の身分とし、司空の張華、尚書僕射の裴頠らは皆殺され、侍中の賈謐及びその郎党数十人もみな誅殺された。甲午、趙王司馬倫は詔を偽って大赦を行い、宣帝や文帝が魏を輔けた故事になぞって自らを相国・都督中外諸軍とし、亡き皇太子の位を元通りに追贈した。丁酉、梁王司馬肜を太宰とし、左光禄大夫の何劭を司徒とし、右光禄大夫の劉寔を司空とし、淮南王司馬允を驃騎将軍とした。己亥、趙王司馬倫は詔を偽って、賈后(註6)を金墉城で殺した。
五月己巳、皇孫の司馬臧を皇太孫とし、司馬尚を襄陽王とした。
六月壬寅、愍懐太子を顕平陵に葬った。撫軍将軍の清河王司馬遐が亡くなった。癸卯、崇陽陵(註7)の柱が震えた。
秋八月、淮南王司馬允が趙王司馬倫を討とうと挙兵したが、敗北し、淮南王司馬允とその二人の子供、秦王司馬郁、漢王司馬迪はみな殺された。洛陽で曲赦を行った。平東将軍の彭城王司馬植が亡くなった。呉王司馬晏を賓徒県王に改封した。斉王司馬冏を平東将軍とし、許昌をおさえさせ、光禄大夫の陳準を太尉・録尚書事とした。
九月、司徒を丞相と改め、梁王司馬肜を任命した。
冬十月、黄色い霧が立ちこめ、四方の視界を覆った。
十一月戊午、大風が吹いて砂や石が舞い、六日後に漸く止んだ。甲子、羊氏を皇后に立て、大赦を行い、大酺(註8)を三日間行った。
十二月、彗星が東方に見えた。益州刺史の趙廞と略陽の流人の李庠が、成都内史の耿勝、犍為太守の李密、汶山太守の霍固、西夷校尉の陳総を殺し、成都で反乱を起こした。
永寧元年〔三〇一年〕春正月乙丑、趙王司馬倫が帝位を簒奪した。丙寅、惠帝を金墉城に移し、太上皇と号し、金墉城を永昌宮と改名した。皇太孫の司馬臧を廃して濮陽王とした。五つの惑星は天を巡り、その動きは定めがなかった。癸酉、趙王司馬倫が濮陽王司馬臧を殺した。略陽の流人の李特が趙廞を殺して、首を都に送った。
三月、平東将軍の斉王司馬冏が趙王司馬倫を討つために挙兵し、諸州や諸郡に檄を飛ばし、陽翟に駐屯した。征北大将軍の成都王司馬穎、征西大将軍の河間王司馬顒、常山王司馬艾、豫州刺史李毅、兗州刺史王彦、南中郎将の新野公司馬歆が、皆この挙兵に応じ、軍勢は数十万にもなった。趙王司馬倫は、閭和を伊闕に出陣させ、趙泓・孫輔を堮坂に出陣して斉王司馬冏と対峙させ、孫会・士猗・許超には黄橋で成都王穎と対峙させた。司馬穎配下の将の趙驤・石超と〔趙王司馬倫の軍が〕戦うに及んで、孫会らは大敗し、軍を放棄して逃走した。
三月閏月丙戌、日蝕があった。
夏四月、木星が昼間に見えた。斉王司馬冏配下の将の何勖と盧播が趙泓を陽翟に攻め、大勝し、孫輔らを斬った。辛酉、左衛将軍の王輿と尚書の淮陵王司馬漼が軍を整えて宮城に入り、趙王司馬倫の郎党の孫秀・孫会・許超・士猗・駱休らを捕らえ、みな斬刑に処した。趙王司馬倫の官職を奪い、その日のうちに天子を元に戻した。群臣が頓首して謝罪すると、恵帝は言った。「卿たちの過失ではない」。
癸亥、詔して言った。「朕は不徳ながら皇位を受け継いだが、外に向けては大業を為して四方を安んじることができず、国内に置いては刑の威光を明らかに出来ず、悪しく邪な風潮を止めることができず、逆臣の孫秀に欲しいままに狼藉させ、ついには趙王倫を奉じて皇位をまで簒奪させるに至ってしまった。鎮東大将軍の斉王冏、征北大将軍の成都王司馬穎、征西大将軍の河間王司馬顒は、みな明徳によく親しみ、心のこもったはかりごとが誠に顕著であり、正しく大策を立て、国難を救った。尚書の淮陵王司馬漼は共に大きな謀を行い、左衛将軍の王輿と群公卿士たちが協同して策略を立て、自ら軍を統率して本陣まで踏み込み、孫秀とその二人の子を斬った。以前に趙王司馬倫は孫秀によって道を誤ったが、その子らと金墉城に出迎えて朕を奥深い宮殿から迎え、車を閶闔(註9)に返した。どうして予一人がその慶びを受けることができようか。宗廟や社稷はなんと頼りになることだろうか」。そして大赦を行い、改元し、孤児と寡婦に五斛の穀物を下賜し、大酺を五日行った。趙王司馬倫、義陽王司馬威、九門侯司馬質、その他司馬倫の郎党を誅殺した。
五月、襄陽王司馬尚を皇太孫とした。
六月戊辰、大赦を行い、官吏の位を二等進めた。賓徒王司馬晏を呉王に戻した。庚午、東莱王司馬蕤と左衛将軍王輿が、斉王司馬冏を廃しようと謀ったが、事が洩れ、司馬蕤は庶民の身分に落とされ、王輿は誅殺され、三族まで処刑された。甲戌、斉王司馬冏を大司馬・都督中外諸軍事とし、成都王司馬穎を大将軍・録尚書事とし、河間王司馬顒を太尉とした。丞相を廃止し、司徒官の制度を復活させた。己卯、梁王司馬肜を太宰・領司徒とした。斉王司馬冏の功臣の葛旟を牟平公に、路季を小黄公に、衛毅を平陰公に、劉眞を安郷公に、韓泰を封丘公に封じた。
秋七月甲午、呉王司馬晏の子の司馬國を漢王に立て、常山王司馬乂を長沙王に改封した。
八月、大赦を行った。戊辰、辺境に移した者を元に戻した(?)。益州刺史の羅尚が羌を討伐し、打ち破った。己巳、南平王司馬祥を移動させて宜都王とした。下邳王司馬韡が亡くなった。東平王司馬楙を平東将軍とし、徐州の諸軍事を都督させた。
九月、東安王司馬繇の爵位を追って復した。丁丑、楚王司馬瑋の子の司馬範を襄陽王とした。
冬十月、流人の李特が蜀で反乱を起こした。
十二月、司空の何劭が亡くなった。斉王司馬冏の子の司馬冰を楽安王に、司馬英を濟陽王に、司馬超を淮南王にした。
この年、十二の郡国で干魃があり、六つの郡国で蝗が大量発生した。
太安元年〔三〇二年〕春正月庚子、安東将軍の譙王司馬随が亡くなった。
三月癸卯、司州・冀州・兗州・豫州の四州で大赦を行った。皇太孫の司馬尚が亡くなった。
夏四月、彗星が昼間に見えた。
五月乙酉、侍中・太宰・領司徒の梁王司馬肜が亡くなった。右光禄大夫の劉寔を太傅とした。太尉の河間王司馬顒が将軍の衙博を派遣して李特を蜀で攻撃したが、李特に敗北した。かくて李特は梓潼・巴西を陥とし、広漢の太守の張微を殺害し、大将軍を自称した。癸卯、清河王司馬遐の子の司馬覃を皇太子とし、孤児と寡婦に絹を下賜し、大酺を五日行った。斉王司馬冏を太師とし、東海王司馬越を司空とした。
秋七月、兗州・豫州・徐州・冀州で洪水があった。
冬十月、地震があった。
十二月丁卯、河間王司馬顒が、斉王司馬冏は帝位を伺っており、主君のいないが如き気でいる、として、成都王司馬穎、新野王司馬歆、范陽王司馬虓らがともに洛陽に集まり、司馬冏の官位を剥奪するよう請願した。長沙王司馬乂が天子を奉じて南止車門に駐屯し、斉王司馬冏を攻め殺し、その子たちを金墉城に幽閉し、斉王司馬冏の弟の北海王司馬寔を廃した。大赦を行い、改元した。長沙王司馬乂を太尉とし、中外の諸軍事を都督させた。東萊王司馬蕤の子の司馬炤を斉王とした。
太安二年〔三〇三年〕春正月甲子朔、懲役五年以下の者を赦免した。
三月、李特が益州を攻め陥とした。荊州刺史の宋岱が李特を攻撃し、彼を斬り、首を都に送った。
夏四月、李特の息子の李雄が再び益州に割拠した。
五月、義陽の蛮人の張尚が挙兵して反旗を翻し、山都の人の丘沈を主として、劉氏に改姓して、国号を漢と僭称し、神鳳と改元し、郡県を攻撃して破り、南陽太守の劉彬、平南将軍の羊伊、鎮南大将軍の新野王司馬歆らは皆殺された。
六月、荊州刺史の劉弘らを派遣して張昌を方城に討伐したが、官軍は敗北した。
秋七月、中書令の卞粹、侍中の馮蓀、河南尹の李含らが長沙王司馬乂に二心を抱き、司馬乂は彼らを疑い殺した。
張昌は江南の諸郡を陥とし、武陵太守の賈隆、零陵太守の孔紘、豫章太守の閻濟、武昌太守の劉根らは皆殺された。張昌の別軍の司令官の石冰が揚州を侵し、刺史の陳徽がこれと戦ったが、大敗し、諸郡はみな侵された。臨淮の人の封雲が挙兵してこれに応じ、阜陵から徐州を侵した。
八月、河間王司馬顒と成都王司馬穎が、長沙王司馬乂を討つために挙兵し、恵帝は司馬乂を大都督として、軍を率いてこれに防御させた。
庚申、劉弘は清水で張昌と戦い、彼を斬った。
河間王司馬顒はその将の張方を、成都王司馬穎はその将の陸機・牽秀・石超らを遣わし、都に迫った。乙丑、恵帝は十三里橋まで行幸し、将軍の皇甫商を遣わして、宜陽で張方に対し防御させた。己巳、恵帝は宣武場まで軍を戻した。庚午、石楼に宿営した。天は裂け、雲無くして雷が鳴った。
九月丁丑、恵帝は河橋に宿営した。壬午、皇甫商が張方に敗れた。甲申、恵帝は芒山に軍を進めた。丁亥、偃師に行幸した。辛卯、豆田に宿営した。癸巳、尚書右僕射で興晋侯の羊玄之が亡くなり、恵帝は城東に軍を回した。丙申、軍を緱氏に進め、牽秀の軍を攻撃し、これを敗走させた。大赦を行った。張方は都に入城し、清明門と開陽門を焼き払い、死者は一万の位に至った。石超が輿に乗って緱氏に迫った。
冬十月壬寅、恵帝は宮殿に戻った。石超は緱氏を焼き払い、天子の衣服や御者は全て焼失した。丁未、〔恵帝側の軍は〕牽秀と范陽王司馬虓を東陽門外で破った。戊申、陸機を建春門で破り、石超を敗走させ、その大将の賈崇ら十六人を斬り、その首を銅駝街に掲げた。張方は軍を退いて十三里橋に駐屯した。
十一月辛巳、星が昼に墜ち、雷鳴の如き音がした。官軍が張方の砦を攻めたが、戦果はなかった。張方は千金堨を決壊させ、臼を搗く水車はみな涸れてしまった。そこで王公の奴婢を派遣して手で穀物を搗いて軍の蔵に入れさせ、一品以下でまだ従軍していない者は、男子で十三歳以上の者は皆兵役に就かせた。また奴隷を派遣して兵を助けさせ、四部司馬と号した。官民ともに逼迫し、米は一石一万銭になった。勅命が至る範囲は、一つの城のみとなっていた。
壬寅の夜、赤い妖気が天を覆い、空はかき曇り怪音がした。丙辰、地震があった。癸亥、東海王司馬越が長沙王司馬乂を捕らえ、金墉城に幽閉し、そのまま張方によって殺されるのを放置した。甲子、大赦を行った。丙寅、揚州の秀才の周玘、前南平内史の王矩、前呉興内史の顧秘が義軍を起こして石冰を討った。石冰は退却して、臨淮から寿陽に向かった。征東将軍の劉準が広陵度支の陳敏を派遣して石冰を攻撃させた。李雄が郫城から益州刺史の羅尚を攻め、羅尚は城を明け渡して逃げたので、李雄は成都の地を全て有することになった。鮮卑の段勿塵を封じて遼西公とした。
永興元年〔三〇四年〕春正月丙午、尚書令の楽広が亡くなった。成都王司馬穎は鄴から恵帝に示唆し、大赦を行い、永安と改元した。恵帝は河間王司馬顒に脅かされており、密かに雍州刺史の劉沈と秦州刺史の皇甫重に詔して〔司馬顒を〕討たしめた。劉沈は挙兵して長安を攻めたが、司馬顒の軍に敗北した。張方は洛中で大いに掠奪を行い、長安に戻った。この時軍中では食料が枯渇し、人肉を食べ合った。成都王司馬穎を丞相とした。司馬穎は従事中郎の成夔らを遣わして、兵五万を以て十二城門(註10)に駐屯させ、殿中の以前から疎んじていた者は、司馬穎がみな殺し、三部兵を以て宿営する者に代えた。
二月乙酉、皇后の羊氏を廃し、金墉城に幽閉し、皇太子の司馬覃も廃位して清河王に戻した。
三月、陳敏が石冰を攻撃し、石冰を斬り、揚州と徐州の二州を平定した。
河間王司馬顒が上表して、成都王司馬穎を皇太弟とするよう求めた。戊申、詔して言った。「朕は不徳の身でありながら統治の大業を受け継いで十五年になるが、戦乱は天に及び、反逆がしばしば起き、宗廟〔の祭祀〕は途絶えた。成都王の司馬穎は恵み深く穏やかで情があり、この暴乱を鎮めうる者である。そこで司馬穎を皇太弟とし、都督中外諸軍事とし、従来通り丞相を務めさせる」大赦を行い、高齢の者、寡夫や寡婦に絹三匹を下賜し、大酺を5日間行った。丙辰、太廟の祭器が盗難に遭った。太尉の司馬顒を太宰とし、太傅の劉寔を太尉とした。
六月、新しく三城門を作った。
秋七月丙申朔、右衛将軍の陳眕が詔により百官を召して殿中に入り、軍を率いて成都王司馬穎を討った。戊戌、大赦を行い、皇后の羊氏と皇太子の司馬覃の位を元に戻した。己亥、司徒の王戎、東海王司馬越、高密王司馬簡、平昌王司馬模、呉王司馬晏、豫章王司馬熾、襄陽王司馬範、右僕射の荀藩らが恵帝を奉じて北征に向かった。安陽に至ったとき、軍勢は十余万に達し、司馬穎は自分の将の石超を派遣して対抗させた。己未、恵帝の軍は蕩陰で敗北し、矢は天子の輿に及び、役人たちは散り散りになり、侍中の嵇紹がこの中で亡くなった。帝の頬も傷つき、三本の矢が当たり、六璽(註11)を失った。恵帝は結局石超の軍に入ったが、ひどく飢えており、石超は水を進上し、左右の者は秋桃を献上した。石超の弟の石煕が帝を奉じて鄴に行き、司馬穎は群官を率いて道の左で(註12)迎え拝謁した。恵帝は輿を降りて泣き、その夕べに司馬穎の元に入った。司馬穎の陣では九錫の儀式があり、陳留王は貂蝉(註13)と文衣(註14)と鶡衣(註15)を送った。翌日、法駕(註16)に乗って鄴に行幸したが、ただ豫章王司馬熾、司徒の王戎、僕射の荀藩のみが従った。庚申、大赦を行い、建武と改元した。
八月戊辰、成都王司馬穎は東安王司馬繇を殺した。張方が再び洛陽に入城し、皇后の羊氏と皇太子の司馬覃を廃した。匈奴の左賢王の劉元海が離石で反旗を翻し、自ら大単于と号した。安北将軍の王淩が烏丸の騎兵で成都王司馬穎を鄴に攻め、これに大勝した。成都王司馬穎と恵帝は車一つで洛陽に奔り、天子の衣服や車馬も散り散りになり、にわかに主従みな財産を失った。侍中黄門が私に銭三千を持っていたので、詔して〔恵帝に〕貸し用いさせた。ある宮人が、持ち合わせた一升余のうるち米とニンニクの味噌焼きを恵帝に進上し、恵帝はそれをむさぼり食い、御中黄門は木綿の布団を準備した(註17)。次いで獲嘉が、粗末な米飯を買い求め、素焼きの盆に盛って差し出し、恵帝は両の鉢からむさぼり食った。老人が蒸し鶏を献上し、恵帝はこれを受けた。温に至り陵に参ろうとした際には、恵帝は履物を失って従者の履物を履いており、拝礼して涙を流し、左右の者はみなすすり泣いた。黄河を渡るに及んで、張方が三千の騎兵を率いて、陽燧青蓋車(註18)で迎え奉った。張方が拝謁すると、恵帝は自らそれを止めた。辛巳、大赦を行い、付き従う者に差を設けて褒賞を与えた。
冬十一月乙未、張方は恵帝に先祖の廟に拝謁するよう請い、恵帝に長安に行幸するよう脅した。張方は車に乗ったまま殿中に入り、恵帝は逃げ出して宮殿の後ろの庭園の竹の中に隠れた。張方は恵帝に迫って車に乗せ、左右中黄門鼓吹の十二人は歩いて従い、ただ中書監の盧志のみがそばに侍っていた。張方は恵帝に自分の砦に行幸させ、一方恵帝は張方に宮人の宝物を皆車に載せさせたので、そこで軍人達は後宮の女たちを盗みめとり、官庫の財産を争いとりあった。魏・晋以来の富は、塵一つ残らなかった。途中新安に泊まったとき、寒さは激しく、恵帝は馬から落ちて足をくじいており、尚書の高光が面衣(註19)を進上し、恵帝はそれを嘉とした。河間王司馬顒が属官及び歩兵と騎兵三万を率いて、覇上に出迎えた。司馬顒は進み出て拝謁したが、恵帝は車を降りてそれを止めた。征西府を王宮とした。ただ、僕射の荀藩、司隷の劉暾、太常の鄭球、河南尹の周馥とその遺官が洛陽にいたので、留台(註20)とし、年中行事を継続して行わせ、東西台と号した。丙午、留台で大赦を行い、改元して再び永安とした。辛丑、皇后の羊氏の身分を元に戻した。李雄が成都王と僭称し、劉元海は漢王と僭称した。
十二月丁亥、詔して言った。「天は晋の国に試練を与え、後を継ぐ者がいない。成都王司馬穎は皇太子を務めていたが、政治は荒れ、四海は失望し、(皇太子の)重責に堪えないので、成都王には皇太子を退かせる。豫章王司馬熾は先帝の愛されし子であり、日一日その誉れは挙がり、国の内外に目を配っている。今、よって司馬熾を皇太弟とし、我が晋の邦を隆盛させる。司空の司馬越を太傅とするので、太宰の司馬顒とともに朕を左右から支えよ。司徒の王戎は朝政に与らせ、光禄大夫の王衍を尚書左僕射とする。安南将軍の司馬虓、安北将軍の司馬淩、平北将軍の司馬騰は、おのおの自分の守るところを押さえよ。高密王司馬簡を鎮南将軍とし、司隷校尉を務めさせるので、仮に洛陽を押さえよ。東中郎将の司馬模を寧北将軍とするので、冀州を都督させ、鄴を押さえよ。鎮南大将軍の劉弘に荊州を領させるので、南の地を平定せよ。周馥と繆胤は各々元の役目に戻れ。役人達の官職はみな元に戻す。斉王司馬冏が先に官職を免じられた際に、長沙王乂は軽い罪により(司馬冏を)重い罪に落としたので、その子の司馬紹を楽平県王に封じ、跡を継がせる。近頃軍はしばしば遠征し、人的資源を浪費し、苛政を取り除き、民衆を愛し根本に力を尽くすべし。事理に通じたのちに、東の都(註21)に戻ろう」。大赦を行い、改元した。河間王司馬顒を都督中外諸軍事とした。
永興二年〔三〇五年〕春正月甲午朔、帝は長安にいた。
夏四月、詔して楽平王司馬紹を斉王に封じた。丙子、張方は皇后の羊氏を廃した。
六月甲子、侍中・司徒の安豊侯王戎が亡くなった。隴西太守の韓稚が秦州太守の張輔を攻め殺した。李雄が皇帝を僭称して即位し、国号を蜀とした。
秋七月甲午、尚書の建物から火が出て、崇礼闥を焼いた。東海王司馬越が徐州で兵を整え、西に大駕を迎えようとした。成都王司馬穎の武将の公師藩らが軍を集めて郡県を攻め落とし、陽平太守の李志や汲郡太守の張延らを殺害し、軍を転じて鄴を攻めたが、平昌公司馬模が将軍の張驤を派遣してこれを撃破した。
八月辛丑、大赦を行った。驃騎将軍の范陽王司馬虓が、冀州刺史の李義を逐った。揚州刺史の曹武が丹楊太守の朱建を殺した。李雄はその将の李驤を派遣して、漢安を荒らした。車騎大将軍の劉弘は平南将軍の彭城王司馬釋を宛に逐った。
九月庚寅朔、公師藩はまた、平原太守の王景と清河太守の馮熊を殺した。庚子、豫州刺史の劉喬が范陽王司馬虓を許昌に攻めて、これを破った。壬子、成都王司馬穎を鎮軍大将軍・都督河北諸軍事とし、鄴を押さえさせた。河間王司馬顒は将軍の呂朗を洛陽に駐屯させた。
冬十月丙子、詔して言った。「豫州刺史の劉喬の檄によると、潁川太守の劉輿は驃騎将軍の司馬虓を脅し、詔に逆らい、理に反したことを造り構え、ほしいままに郡や県で強奪を行い、兵を集め、ほしいままに苟晞を用いて兗州刺史とし(註22)、王命を無視している。鎮南大将軍の劉弘と平南将軍の彭城王司馬釋らは、それぞれ自らの持つ軍隊をまとめ、ただちに許昌に結集し、劉喬と力を合わせよ。今、右将軍の張方を遣わして大都督とし、精鋭十万を指揮し、建武将軍の呂朗、廣武将軍の騫貙、建威将軍の刁默を軍の前鋒とし、共に許昌に集まり、劉輿兄弟を排除すべし」丁丑、前の車騎将軍の石超、北中郎将の王闡に劉輿らを討たせた。赤い気が北方に見え、東西に天を覆った。北斗に彗星が見えた。平昌王司馬模は将軍の宋冑を派遣して河橋に駐屯させた。
十一月、立節将軍の周権が檄を受け取ったと詐称し、平西将軍と自称し、皇后の羊氏の位を戻した。洛陽令の何喬が周権を攻め殺し、再び皇后を廃した。
十二月、呂朗らは東方の滎陽に駐屯した。成都王司馬穎が進撃し洛陽に駐在し、張方や劉弘らはともに兵を整えている最中で守ることができなかった。范陽王司馬虓が官渡から黄河を渡り、滎陽を陥落させ、石超を斬り、許昌を襲撃し、劉喬を蕭で破り、劉喬は南陽に逃げた。右将軍の陳敏は挙兵して反旗を翻し、自ら楚公と号した。内々に詔を受け、沔漢から帝を迎え奉ると偽称し、揚州刺史の劉機と丹楊太守の王曠を逐った。弟の陳恢を遣わして南の江州を奪わせ、刺史の応邈は弋陽に逃げた。
光煕元年春正月戊子朔、日蝕があった。恵帝は長安にいた。河間王司馬顒は劉喬が敗れたと聞いて大いに懼れ、張方を斬り、東海王司馬越に講和を申し入れたが、司馬越は認めなかった。宋冑は司馬穎の将の樓裒を破り、進撃して洛陽に迫り、司馬穎は長安に逃げた。
甲子、司馬越はその将の祁弘、宋冑、司馬纂らを遣わして恵帝を迎えさせた。
三月、東莱の姙の令の劉柏根が反乱を起こし、姙公と自称し、臨淄を襲い、高密王司馬簡は聊城に奔った。王浚は将を派遣して劉柏根を討ち、彼を斬った。
夏四月己巳、東海王司馬越は温に駐屯した。河間王司馬顒は弘農太守の彭随と北地太守の刁默を派遣し、湖で祁弘に対する備えとさせた。
五月、流れ星が西南に流れた。范陽国で地が燃え、炊飯ができるほどだった。
壬辰、祁弘と刁默が戦い、刁默は大敗し、司馬顒と司馬穎は南山に奔り、宛に逃げた。祁弘の部下の鮮卑族が長安を掠奪し、二万余人を殺した。この日、日光が散り散りになり、血の如く赤かった。甲午の日にも同様のことがあった。
己亥、祁弘らは恵帝を奉じて洛陽に還り、恵帝は牛車に乗っていた。行宮は草むしており、公卿たちは山野を流浪していた。戊申、驃騎将軍の司馬虓が司隷校尉の邢喬を殺した。己酉、太廟の金匱(註23)と策文(註24)四通ずつが盗み取られた。
六月丙辰朔、長安から到着し、旧殿に戻り、悲しみに涙した。太廟に拝謁した。皇后の羊氏の位を戻した。辛未、大赦を行い、改元した。
秋七月乙酉朔、日蝕があった。太廟の役人の賈苞が太廟の霊衣(註25)及び剣を盗み、誅殺された。
八月、太傅の東海王司馬越を録尚書とし、驃騎将軍の范陽王司馬虓を司空とした。
九月、頓丘太守の馮嵩が成都王司馬穎を捕らえ、鄴に送った。東嬴公司馬騰の爵位を進めて東燕王とし、平昌王司馬模を南陽王とした。
冬十月、范陽王司馬虓が亡くなった。司馬虓の長史の劉輿が成都王司馬穎を殺した。
十一月庚午、恵帝は顕陽殿で亡くなった。時に四十八歳だった。太陽陵に葬られた。
恵帝が太子となったとき、朝廷の者はみな〔恵帝が〕政務に堪えないことを知っており、武帝もまた〔恵帝の能力を〕疑っていた。かつて東宮の役人達を全て召して、尚書の業務について太子に決定させたが、恵帝は答えることができなかった。賈妃が左右の者を遣わして代わって答えさせようとしたが、多く故事を引いていた。給事の張泓が言った。「太子に学がないことは、陛下もご存じの所です。今は事実を以て判断すべきであり、古来の書を引用すべきではありません」賈妃はこれに従った。そこで張泓が起草し、恵帝にこれを清書させた。武帝はこれを見て大いに喜び、太子はようやく安泰となった。恵帝が即位すると、政策は部下たちから出て、綱紀は大いに乱れ、賄賂が横行し、高位に就いた家柄がその身分を利用して物を奪い、忠賢の道は絶え、よこしまで中傷ばかりする者が得をし、さらに〔そのような者たちが〕互いに推挙し合うので、天下の人々はこれを、互いに市を立ててるようなものだと言った。高平王司馬沈が釈時論を、南陽の魯褒が銭神論を、廬江の杜嵩が任氏春秋を著したが、みな時勢を批判したものだった。恵帝はある時華林園において、蛙の声を聞いて、左右の者に言った。「この鳴いている蛙は官のために鳴いているのか、私のために鳴いているのか?」ある者が答えて言った。「官有地にいるときには官のために、私有地にいるときには私のために鳴いております」。また、天下が荒れ果て、百姓が餓死している時、恵帝は言った。「何故肉粥を食べぬのか?」帝が愚かであることは、みなこんな調子だった。餅の毒に当たって崩御したが、あるいは司馬越の盛った毒によるものだとも言われている。
註
(註1) 本来ならば、この後3月に更に改元されておりこの項は「元康元年」と記される筈である。だが、本文中にはどこにもこの後の改元による「元康」の年号は出てこない。ここでは本文は原文通りとし、翌年以降「元康二年」と書くことにしておく。
(註2)天につかえ、地につかえ、民を治める。
(註3)法を曲げて罪を許すこと。
(註4)ともに星座の名前。
(註5)後嗣を祀る祭。
(註6)原文「賈庶人」。
(註7)文帝(司馬昭)の陵。
(註8)官から人民に酒食を賜うこと。
(註9)天の門。西門。この文章中では不明。
(註10)都の全ての門か? 不明。
(註11)天使の六つの玉印。皇帝行璽、皇帝之璽、皇帝信璽、天子行璽、天子之璽、天子信璽。
(註12)道の中央は皇帝のためのもの、つまり、最も尊貴なる者のためのものなので、道の左側に就いたと考えられる。武帝紀註152参照。
(註13)貂の尾とセミの羽。
(註14)もようのある着物、美しい衣装。
(註15)山鳥の尾。冠飾りにする。
(註16)天子の乗り物。
(註17)原文「御中黄門布被」。意味が取れません。
(註18)陽燧とは銅の鏡のこと。青蓋車は青色の覆いのある車で、天子の車。
ここでは天子の車の一種と思えるが、不明。
(註19)寒さを防ぐため顔を覆うもの。
(註20)留守の官のこと。
(註21)洛陽のこと。
(註22)原文「為兗州」。自信なし。
(註23)宮中の文書を入れる金属製・金製の箱。
(註24)天子を陵墓に祀るときの、生前の功績を称えた韻文。
(註25)死者の平生の衣。
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