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孝懐帝紀
訳出担当 辰田 淳一
孝懐皇帝は諱を熾、字を豊度といい、武帝の第二十五子である。太煕元年、予章郡王に封じられた。恵帝の治世時に、王室は内紛を起こしたが、懐帝は穏やかな性格で自ら慎み、家の門には客の姿も絶え、世間と関わることなく、ただもっぱら史籍に親しみ、時の誉れを得た。はじめ散騎常侍を拝したが、趙王司馬倫(注1)の簒奪の際に官位を没収された。司馬倫が敗れると、射声校尉となった。その後車騎大将軍・都督青州諸軍事に任じられたが、任地には行かなかった。
永興元年、鎮北大将軍・都督鄴城守諸軍事を授けられた。十二月丁亥、皇太弟に立てられた。懐帝は清河王司馬覃こそが本来は太子たるべきであり、自分は任に堪えないのではないかと危惧していた。そこで典書令の盧陵と脩粛が言った。「二人の大臣が王室を支え、社稷を安んじようと志し、皇太子の重任に堪え、時の人望を得て、賢人の教えに親しんでいる、そんな人間を挙げれば、大王に非ずして誰がおりますでしょうか? 清河王は今まだ幼く、まだ人々の支持を得ているとは言えませんので、そこで東宮の位に昇り、また諸国を助ける任に就くべきなのです。今、天子は流転の身にあり、二つの宮殿(注2)は長らく空になっており、常に氐や羌が涇川(注3)の水を馬に飲ませ、蟻のような者どもが覇水で弓を引くのではないかと恐れております。どうか、吉日を折りに太子の位に上り、上は天子を助け東の都(注4)に早く平和を取り戻し、下は民衆の仰ぎ待望する心に応えてくださいませ」。懐帝は言った。「ありがたい、卿はまさに私の宋昌(注5)だ」こうしてその言に従った。
光煕元年〔三〇六年〕十一月庚午、孝恵帝が崩御した。羊皇后が、皇太弟から見れば自分は兄嫁であり、皇太后とはなれないことから、清河王司馬覃に後を継がせようともくろみ、既に尚書閣まで至っていたので、侍中の華混らは急いで皇太弟を召し出した。癸酉、司馬熾は皇帝に即位し、大赦を行い、皇后の羊氏を尊んで恵皇后とし、弘訓宮に住まわせ、生母である太妃の王氏を皇太后と追尊し、妃の梁氏を皇后に立てた。
十二月壬午朔、日蝕があった。己亥、彭城王司馬植の子の司馬融を楽城県王とした。南陽王司馬模が河間王司馬顒を雍谷で殺した。辛丑、中書監の温羨を司徒とし、尚書左僕射の王衍を司空とした。己酉、孝恵皇帝を太陽陵に葬った。李雄の別動軍の李離が梁州に侵攻した。
永嘉元年〔三〇七年〕春正月癸丑朔、大赦を行い、改元し、三族刑を免除した。太傅の東海王司馬越に輔政させ、御史中丞の諸葛玟を殺した。
二月辛巳、東莱の人の王弥が挙兵して氾濫を起こし、青州と徐州を荒らし、長広太守の宋羆、東牟太守の龐伉が皆殺害された。
三月己未朔、平東将軍の周馥が陳敏を斬って首を都に送った。丁卯、武悼楊皇后を改葬した。庚午、予章王司馬詮を皇太子とした。辛未、大赦を行った。庚辰、東海王司馬越が出陣して許昌に陣取った。征東将軍の高密王司馬簡を征南大将軍・都督荊州諸軍事とし、襄陽に駐屯させた。安北将軍の東燕王司馬騰を新蔡王に改封し、都督司冀二州諸軍事とし、鄴に駐屯させた。征南将軍の南陽王司馬模を征西大将軍・都督秦雍梁益四州諸軍事とし、長安に駐屯させた。幷州の諸郡はみな劉元海(注6)によって陥とされ、唯一刺史の劉琨が晋陽を保っていた。
夏五月、馬牧帥の汲桑が兵を集めて反乱を起こし、魏郡太守の馮嵩を破り、ついには鄴城を陥とし、新蔡王司馬騰を殺害した。鄴の宮殿を焼き、その火は十日経っても止まなかった。さらに前の幽州刺史の石尟を楽陵で殺し、平原(注7)に侵入し、山陽公劉秋を殺害した。洛陽の步廣里で地面に穴が開き、二羽のガチョウが現れ、青いものは空高く飛んでいったが、白いものは飛べなかった(注8)。建寧郡の蛮族が寧州を攻め落とし、死者は三千余人にのぼった。
秋七月己酉朔、東海王司馬越は軍を進めて官渡に駐屯し、汲桑を討った。己未、平東将軍の司馬睿を安東将軍・都督揚州江南諸軍事・仮節とし、建鄴に駐屯させた。
八月己卯朔、撫軍将軍の苟晞が汲桑を鄴で破った。甲辰、幽州・幷州・司州・冀州・兗州・予州の六州で曲赦(注9)を行った。荊州と江州の八郡を分割して湘州とした。
九月戊申、苟睎が再度汲桑を破り、その砦を陥とした。辛亥、(星が二つ天に現れたが、)大きい星は太陽のよう、小さい方は斗(注10)のようであり、西方から東北へと流れ、天は紅く染まり、雷鳴の如き音が響いた。初めて許昌の千金堨を修築し、通運の用と為した。
冬十一月戊申朔、日蝕があった。甲寅、尚書右僕射の和郁を征北将軍とし、鄴に駐屯させた。
十二月戊寅、幷州の人の田蘭・薄盛らが汲桑を楽陵で斬った。甲午、前の太傅の劉寔を太尉とした。庚子、光禄大夫の延陵公高光を尚書令とした。東海王司馬越が詔を偽って、清河王司馬覃を金墉城に幽閉した。癸卯、司馬越は自らを丞相とした。撫軍将軍の苟晞を征東大将軍とした。
永嘉二年〔三〇八年〕春正月丙午朔、日蝕があった。丁未、大赦を行った。
二月辛卯、清河王司馬覃は東海王司馬越によって殺された。庚子、石勒が常山に侵攻したが、安北将軍の王浚がこれを打ち破った。
三月、東海王司馬越は鄄城に駐屯した。劉元海は汲郡に侵攻し、頓丘・河内の地で掠奪した。王弥が青州・徐州・兗州・予州の四州を侵した。夏四月丁亥、王弥は許昌に入城し、諸郡の守将はみな遁走した。
五月甲子、王弥はついに洛陽に侵攻したが、司徒の王衍が兵を率いて守り、王弥は退却した。
秋七月甲辰、劉元海が平陽に侵攻し、太守の宋抽は首都に敗走し、河東太守の路述は力戦したものの敗死した。
八月丁亥、東海王司馬越は鄄城から移動して濮陽に駐屯した。
九月、石勒が趙郡に侵攻し、征北将軍の和郁が鄴から衛国へと敗走した。
冬十月甲戌、劉元海は平陽で皇帝号を僭称し、国号を漢と称した。(注11)
十一月乙巳、尚書令の高光が亡くなった。丁卯、太子少傅の荀藩を尚書令とした。己酉、石勒が鄴に侵攻し、魏郡太守の王粹が敗死した。
十二月辛未朔、大赦があった。長沙王司馬乂の子の司馬碩を長沙王とし、司馬尟を臨淮王とした。
永嘉三年〔三〇九年〕春正月甲午、彭城王司馬釈が亡くなった。
三月戊申、征南大将軍の高密王司馬簡が亡くなった。尚書左僕射の山簡を征南将軍・都督荊湘交広等四州諸軍事とし、司隷校尉の劉暾を尚書左僕射とした。丁巳、東海王司馬越が首都に帰還した。乙丑、兵を整えて宮殿に入り、懐帝の目の前で近臣の中書令繆播や懐帝の舅の王延ら十余人を捕らえて、皆殺した。丙寅、河南郡で曲赦を行った。丁卯、太尉の劉寔が老年のため引退を申し出たので、司徒の王衍を太尉とした。東海王司馬越が司徒となった。劉元海が黎陽に侵攻したので、車騎将軍の王堪にこれを討たしめたが、軍は延津で敗北し、死者は三万余人にのぼった。大旱魃があり、長江、漢水、黄河、洛水はみな涸れて歩いて渡れた。
夏四月、左積弩将軍の朱誕が晋に叛いて劉元海の元に奔った。石勒は冀州の郡県の百以上の砦を攻め落とした。
秋七月戊辰、当陽の三ヵ所で地が裂け、その幅は各々三丈(注12)、長さは三百余歩(注13)だった。辛未、平陽の人の劉芒蕩が漢の末裔だと自称して、羌戎をたぶらかし、馬蘭山で帝号を僭称した。支胡(注14)の五斗叟と郝索が数千人の兵を集めて反乱を起こし、新豊に駐屯し、劉芒蕩に合流した。劉元海はその子の劉聡と王弥を遣わして上党に侵攻し、壷関を包囲した。幷州刺史の劉琨が兵を出して救おうとしたが、劉聡に敗北した。淮南内史の王曠と、将軍の施融・曹超が劉聡と戦ったが、これも敗れ、曹超と施融は敗死した。上党太守の龐淳は郡もろとも賊に降伏した。
九月丙寅、劉聡は浚儀を包囲したので、平北将軍の曹武を遣わして討たしめた。丁丑、晋軍は敗北した。東海王司馬越は首都に入って防御した。劉聡は西明門まで至ったが、司馬越はこれを守りきり、宣陽門外で戦って晋軍は大勝した。石勒が常山に侵攻したが、安北将軍の王浚は鮮卑の兵を使って常山を救い、石勒の軍を飛龍山で大いに破った。征西大将軍の南陽王司馬模はその将の淳于定に命じて劉芒蕩と五斗叟を破り、彼らを斬った。車騎将軍の王堪及び平北将軍の曹武に劉聡を討たせたが、晋軍は敗北し、王堪は洛陽に逃げ帰った。李雄の別働隊の長の羅羨が梓潼を帰順させた。劉聡は洛陽の西明門を攻めたが、陥とせなかった。宜都の夷道で山が崩れ、荊州と湘州の二州で地震があった。
冬十一月、石勒は長楽を陥とし、安北将軍の王斌を殺し、黎陽で人民を殺した。乞活の長の李惲、薄盛らが兵を率いて洛陽を救援し、劉聡は退却した。李惲らはまた、新汲で王弥を破った。
十二月乙亥、夜に帯のような白い気が現れ、地面から点へと立ち上り、その長さは南北二丈(注15)に及んだ。
永嘉四年〔三一〇年〕春正月乙丑朔、大赦を行った。
二月、石勒が鄄城を襲い、兗州刺史の袁孚が戦いに敗れ、石勒の部下に殺害された。石勒はまた白馬を襲い、車騎将軍の王堪が亡くなった。李雄配下の将の文碩が同じく李雄配下の大将軍の李国を殺し、巴西で帰順した。戊午、呉興の人の銭璯が反乱をおこし、平西将軍を自称した。
三月、丞相・倉曹属の周玘が郷人を率いて銭璯を討伐し、彼を斬った。
夏四月、洪水があった。将軍の祁弘が劉元海配下の将の劉霊曜を広宗で破った。李雄が梓潼を陥とした。兗州で地震があった。
五月、石勒は汲郡に侵攻し、太守の胡寵を捕らえ、ついに黄河を南に渡り、滎陽太守の裴純は建鄴へと敗走した。強風で木々が折れた。地震があった。幽州・幷州・司州・冀州・秦州・雍州の六つの州で蝗が大量発生し、草木や馬や牛の毛にいたるまでことごとく食べた。
六月、劉元海が死に、その子の劉和が僭称する帝位を嗣いだが、劉和の弟の劉聡が劉和を殺して自立した。
秋七月、劉聡の従弟の劉曜とその将の石勒が懐を包囲したので、詔して征虜将軍の宋抽を救援に差し向けたが、劉曜に敗北し、宋抽は敗死した。
九月、河内の人の楽仰が太守の裴整を捕らえて叛き、石勒に投降した。徐州監軍の王隆が下邳から軍を捨てて周馥の下に奔った。雍州の人の王如が宛で挙兵し、令長(注16)を殺害し、自ら大将軍・司雍二州牧と号し、漢沔で掠奪を行った。新平の人の龐寔、馮翊の人の厳嶷、京兆の人の侯脱らがそれぞれ挙兵してこれに呼応した。征南将軍の山簡、荊州刺史の王澄、南中郎将の杜蕤らが兵を遣わして洛陽を救援しようとしたが、宛で王如と戦って、諸軍はみな敗北した。ただ王澄だけが兵を率いて進撃して沶口まで進撃したが、兵が壊滅して戻った。
冬十月辛卯、昼間から辺りが暗く、庚子までこの状況が続いた。大きな星が西南の方向に墜ち、音が響いた。壬寅、石勒は倉垣を包囲したが、陳留内史の王讃がこれを撃退し、石勒は黄河の北に敗走した。壬子、驃騎将軍の王浚を司空とし、平北将軍の劉琨を平北大将軍とした。洛陽で飢饉があった。東海王司馬越は羽檄(注17)を出して国中から兵を集めた。懐帝は使者に言った。「朕の言葉を諸国の征鎮に伝えよ。今ならまだ何とかなるが、この後ではもう手遅れである、と」しかしこの時、とうとう来る者はなかった。石勒が襄城を陥とし、太守の崔曠が殺され、遂に石勒の軍は宛まで迫った。王浚は鮮卑の文鴦率いる騎兵を遣わして救援させ、石勒は退却した。王浚はまた別に、将軍の王申始を遣わして石勒を汶石津に攻撃し、大勝した。
十一月甲戌、東海王司馬越は兵を率いて許昌へと出陣し、行台(注18)も自分に従わせた。宮中には守る者もなく、飢饉は日増しに酷く、宮殿内のそこかしこに死人が転がり、役所も営署(注19)も自分で堀を掘って自衛し、盗賊は公然と横行し、(戦を告げる?)太鼓の音は絶えなかった。司馬越の軍は項に着き、自ら予州牧となり、太守の王衍を軍司とした。丁丑、氐の流浪民の隗伯らが宜都を遅い、太守の嵇晞は建鄴に奔った。王申始が劉曜・王弥を瓶塁に攻め、彼らを破った。鎮東将軍の周馥が天子を迎えて寿陽に遷都することを上表したので、司馬越は裴碩に周馥を討たせたが、周馥に敗れ、敗走して東城に拠り、琅邪王司馬睿に救援を求めた。襄陽で伝染病が流行し、死者が三千余人に及んだ。涼州刺史の張軌に安西将軍を加えた。
十二月、征東大将軍の苟晞が王弥の別働隊の将の曹巍を攻め破った。乙酉、平陽の人の李洪が流浪民をまとめて定陵に入り、反乱を起こした。
永嘉五年〔三一一年〕春正月、懐帝は苟晞に密勅を出して司馬越を討たせた。壬申、苟晞は曹巍に敗れた。乙未、司馬越は従事中郎将の楊瑁、徐州刺史の裴盾を派遣して、共に苟晞を討たせた。癸酉、石勒は江夏に入り、太守の楊珉は武昌へと逃走した。乙亥、李雄は涪城を攻め落とし、梓潼太守の譙登が殺された。湘州の流人の杜弢が長沙で反乱を起こした。戊寅、安東将軍の琅邪王司馬睿が、将軍の甘卓に鎮東将軍の周馥を寿春に攻めさせ、周馥の軍勢は潰滅した。庚辰、太保の平原王司馬幹が亡くなった。
三月戊午、詔して東海王司馬越の罪状を述べ、方鎮(注20)に司馬越を討つよう告示した。征東大将軍の苟晞を大将軍とした。丙子、東海王司馬越が亡くなった。
四月戊子、石勒は東海王司馬越の葬列を追撃し、東郡で追いつき、将軍の銭端が戦死し、軍は潰滅し、太尉の王衍、吏部尚書の劉望、廷尉の諸葛銓、尚書の鄭豫、武陵王司馬澹らが皆殺され、王公以下死者は十余万人にのぼった。東海王の跡継ぎの司馬毗をはじめ、皇室の四十八王が短期間で石勒に殺された。賊の王桑と冷道が徐州を陥とし、刺史の裴盾は殺された。これにより王桑は淮河流域を完全に支配下に入れ、歴陽まで迫った。
五月、益州の流人の汝班、梁州の流人の蹇撫が湘州で反乱を起こし、刺史の苟眺を捕らえ、南は零・桂の諸郡を荒らし、東は武昌へ侵略し、安城太守の郭察、邵陵太守の鄭融、衡陽内史の滕育らが皆殺された。司空の王浚の位を大司馬に進め、征西大将軍の南陽王司馬模を太尉とし、太子太傅の傅祗を司徒とし、尚書令の荀藩を司空とし、安東将軍の琅邪王司馬睿を鎮東大将軍とした。
東海王司馬越が出陣する際、河南尹の潘滔に留守を守らせていた。大将軍の苟晞が倉垣に遷都することを上表し、懐帝がそれに従おうとしたが、諸大臣は潘滔を懼れ、詔を奉ぜようとせず、また宮中の者や宦官たちは自分の私財を惜しんで遷都を嫌がった。この頃には飢饉が悪化し、人々は互いに喰らい合い、官吏たちの八、九割は流亡していた。懐帝は群臣を召し出して会議し、出発しようとしたが、警備する者すらなかった。懐帝は我が手を撫でて言った。「なんと、車も輿も無いのをどうしよう」。そこで司徒の傅祗を河陰に遣わし、船を修理して河から移動する準備をさせ、朝士数十人をそれに従わせた。懐帝は歩いて西掖門から出て、銅駞街まで至ったが、盗賊の掠奪に遭い、それ以上進めずに引き返した。
六月癸未、劉曜、王弥、石勒がともに洛川に侵攻し、晋軍は賊たちに連戦連敗し、沢山の者が死んだ。庚寅、司空の荀藩、光禄大夫の荀組は轘轅に逃走し、太子左率の温畿は夜に広莫門を開いて小平津に逃走した。丁酉、劉曜、王弥は洛陽に入城した。懐帝は華林園の門を開き、河陰の藕池へと脱出し、長安へと逃れようとしたが、劉曜らの追跡を逃れられなかった。劉曜らは晋の祖廟を焼き、后たちを辱めた。呉王司馬晏、竟陵王司馬楙、尚書左僕射の和郁、右僕射の曹馥、尚書の閭丘沖、袁粲、王緄、河南尹の劉默らが皆殺され、百官から庶民に至るまで死者は三万余人に及んだ。懐帝は平陽に落ち延び、劉曜は懐帝を会稽公とした。荀藩は各州の鎮に触れを回し、琅邪王を盟主とした。豫章王司馬端は東の苟晞の下に逃走した。苟晞は司馬端を皇太子とし、自ら中書令となり、各官庁を置き、梁国の蒙県をその領とした。凶作があり、米の値段は万余となった。
秋七月、大司馬の王浚は詔を受けて、仮に皇太子を立て、百官を置き、征鎮を配置した。石勒は穀陽に侵攻し、沛王司馬滋は敗死した。
八月、劉聡は子の劉粲に長安を攻め落とさせ、太尉・征西将軍の南陽王司馬模が殺害され、長安に残っていた四千余家の人々は漢中へと逃げた。
九月癸亥、石勒は陽夏を襲い、蒙県まで至り、大将軍の苟晞と予章王司馬端が賊に殺された。
冬十月、石勒は予州の諸郡を荒らし、長江まで至って引き返した。
十一月、猗盧(注21)が太原を侵し、平北将軍の劉琨はこれを収められず、猗盧は五県の民衆を新興に連行してその地に本拠を置いた。
永嘉六年〔三一二年〕春正月、懷帝は平陽にいた。劉聡が太原に侵攻した。元の鎮南府牙門将の胡亢が兵を集めて荊州の地に侵攻し、自ら楚公と号した。
二月壬子、日蝕があった。癸丑、鎮東大将軍の琅邪王司馬睿が尚書に上表して、石勒を討つよう四方に檄を飛ばした。大司馬の王浚も天下に檄し、内々に詔を受けたと称し、荀藩を太尉とした。汝陽王司馬熙が石勒に殺害された。
夏四月丙寅、征南将軍の山簡が亡くなった。
秋七月、木星、火星、金星が牛斗(注22)に集まった。石勒が冀州に侵攻した。劉粲が晋陽に侵攻し、平北将軍の劉琨の残した武将の郝詵が兵を率いて防御したが、郝詵は敗死し、太原太守の高喬が晋陽を開城して劉粲に降伏した。
八月庚戌、劉琨は常山に敗走した。己亥、陰平都尉の董沖が太守の王鑒を逐い、郡ごと李雄に投降した。辛亥、劉琨は猗盧に援軍を要請し、上表して猗盧を代公とした。
九月己卯、猗盧はその子の利孫に劉琨の下へと行かせたが、進軍できなかった。辛巳、前の雍州刺史の賈疋が劉粲を三輔に討伐し、敗走させたので、関中は少し安定を取り戻した。そこで、衞将軍の梁芬と京兆太守の梁綜がともに、秦王鄴を長安で皇太子に奉じた。
冬十月、猗盧は自ら六万騎を率いて、盂城に宿営した。
十一月甲午、劉粲は遁走し、劉琨はその兵を吸収し、陽曲に陣取った。
この年、疫病が大流行した。
永嘉七年〔三一三年〕春正月、劉聡は大きな宴会を行い、その際に懐帝に青い衣(注23)で酌をさせた。侍中の庾珉が号泣し、劉聡は不快に思った。
丁未、懐帝は殺害され、平陽で崩御した。時に三十歳だった。
懐帝が生まれたとき、豫章の南昌で嘉禾(注24)が生じた。これに先立って、望気者が「豫章に天子の気がある」と言い、その後ついに豫章王が皇太弟となった。東宮(注25)にあっても、慎み深く偉ぶらず、役人たちと引見してはともに書籍を論じていた。即位して後も、始めは旧制に従い、太極殿に臨んでは尚書郎に折々の行事予定を講読させ、東堂で政務を執った。宴会においてすら、官吏たちと共に政務を論じ、典籍を論じた。黄門侍郎の傅宣が嘆息していった。「ああ、今日また武帝の御代を見られようとは!」また、秘書監の荀崧は常々人に言っていた。「懐帝はその姿は清らかで、若くして英邁さを顕し、もし太平の世であれば、祖法を守り佳い主となるべき人であった。しかし恵帝の騒乱の後を継ぎ、その治世は東海王が専政し、懐帝は幽王や厲王(注26)のような罪なくして、流亡の憂き目に遭ってしまった」
註
(注1)司馬倫が賈后を弑した上で、恵帝を退位させて自らが皇帝となったクーデター事件。数ヶ月で敗死し、恵帝が再度皇位に戻る。
(注2)洛陽と長安か? 再確認
(注3)次の覇水とともに、長安近辺の川。
(注4)長安。
(注5)前漢の人物。代王だった文帝が呂氏一族の誅殺の後に皇帝として招かれた際、群臣が反対する中、一人それに応じるのを勧めて文帝の即位を後押しした。
(注6)本来の名前は劉淵。本名が唐の高祖(李淵)の諱に当たるので、ここでは字で記されている。
(注7)一般名詞ではなく地名。
(注8)解釈不明。五行説か何かでしょうか?
(注9)法を曲げて大赦を行うこと。
(注10)斗=北斗七星・南斗六星であり、そのくらいの明るさという意味か? 不明。
(注11)この漢の独立をもって五胡十六国の始まりとされることが多い。なお、一般にはこの後に国号を改称した趙(前趙)として知られている。
(注12)7m強ほど。
(注13)4~500mほど。
(注14)不明。異民族の分派というような意味?
(注15)5m弱。
(注16)県の長官。
(注17)緊急で重大な事件を知らせる軍事文書。
(注18)臨時に地方で尚書を行う場所。主に征討を司る。
(注19)軍営中の妓女の住居。
(注20)軍事権限を持つ地方長官。
(注21)一般には拓跋猗盧。のちの代の建国者。本書の中では拓跋姓が記されていないので、これ以降全て名前のみで記す。
(注22)牽牛星と北斗星。
(注23)身分の低い者が着る服である。
(注24)実の多く付いた立派な稲。たわわに実った稲。瑞祥。
(注25)皇太子の宮殿。
(注26)ともに古代の周王で暴君とされる人物。西周を衰亡させ、周が東遷して春秋時代に入るとなったとされている。
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