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胡毋輔之伝
訳出担当 辰田 淳一
胡毋輔之字彦國,泰山奉高人也.高祖班,漢執金吾.父原,練習兵馬,山濤稱其才堪邊任,舉爲太尉長史,終河南令.輔之少擅高名,有知人之鑒.性嗜酒,任縱不拘小節.與王澄、王敦、庾敳俱爲太尉王衍所昵,號曰四友.澄嘗與人書曰:「彥國吐佳言如鋸木屑霏霏不絶,誠爲後進領袖也.」
胡毋輔之は字を彦国といい、泰山の奉高の人である。先祖は胡毋班といい、漢の執金吾だった。父の胡毋原は、兵馬を鍛錬していたが、山濤がその才能は辺境の任でこそ生きるとして、推挙して太尉長史とし、最後は河南令となった。胡毋輔之は若い頃から高名をほしいままにし、人物鑑を持っていた。生来酒を好み、豪快で小さなことにこだわらなかった。王澄、王敦、庾敳とともに太尉の知己を得て、四友と号された。王澄が人に手紙を与えて言った。「彦国どのは、まるで鋸の木くずが雪のように舞うかの如く、絶え間なく佳きことを言う。誠に後進の範とすべき方だ」
辟別駕、太尉掾,並不就.以家貧,求試守繁昌令,始節酒自厲,甚有能名.遷尚書郎.豫討齊王冏,賜爵陰平男.累轉司徒左長史.復求外出,爲建武將軍、樂安太守.與郡人光逸晝夜酣飲,不視郡事.成都王穎爲太弟,召爲中庶子,遂與謝鯤、王澄、阮脩、王尼、畢卓俱爲放達.
別駕・太尉掾として召されたが、ともに就任しなかった。家が貧しかったので、求めて繁昌令に試しに就けられたが、はじめて酒を慎み自ら勉励し、有能だととても評判になった。そして、尚書郎に移った。斉王冏を討つのに関わり、陰平男の爵位を賜った。さらに司徒左長史に転じた。再び地方勤務を望み、建武将軍・楽安太守となった。郡の人の光逸と昼夜を問わず酒盛りをして、郡の政務をしなかった。成都王穎が皇太弟となると、召されて中庶子となり、謝鯤・王澄・阮脩・王尼・畢卓らとともに自由きままであること名を為した。
嘗過河南門下飲,河南騶王子博箕坐其傍,輔之叱使取火.子博曰:「我卒也,惟不乏吾事則已,安復爲人使!」輔之因就與語,歎曰:「吾不及也!」薦之河南尹樂廣,廣召見,甚悅之,擢爲功曹.其甄拔人物若此.
ある時、河南郡の門のそばで呑んでいると、河南の御者の王子博が傍に来て、両足を投げ出して座った。胡毋輔之は叱って火を取りに行かせた。王子博は言った。「俺は一介の兵卒に過ぎんが、自分のことには不自由してねぇ。なんでまた人の使いっ走りをせねばならねーんだ」胡毋輔之は因就與語、嘆息していった。「これは私が至りませんでしたな」そして彼を河南尹の楽広に紹介すると、楽広は彼を呼び出して、とても気に入り、功曹に抜擢した。胡毋輔之の人材抜擢はこのようだった。
東海王越聞輔之名,引爲從事中郎,復補振威將軍、陳留太守.王彌經其郡,輔之不能討,坐免官.尋除寧遠將軍、揚州刺史,不之職,越復以爲右司馬、本州大中正.越薨,避亂渡江,元帝以爲安東將軍諮議祭酒,遷揚武將軍、湘州刺史、假節.到州未幾卒,時年四十九.子謙之.
東海王司馬越が胡毋輔之の名声を聞き、引き立てて従事中郎とし、また振威将軍・陳留太守に補任した。王弥がその郡を支配して、胡毋輔之はそれを討伐できず、免官された。まもなく寧遠将軍・揚州刺史に叙任されたが、勤務地に行かないうちに、司馬越がまた右司馬・本州大中正とした。司馬越が亡くなった後、戦乱を避けて長江を渡り、元帝は彼を安東将軍・諮議祭酒とし、その後揚武将軍・湘州刺史・仮節に移した。湘州に着いて間もなく亡くなった。時に四十九歳だった。子は謙之である。
謙之字子光.才學不及父,而傲縱過之.至酣醉,常呼其父字,輔之亦不以介意,談者以爲狂.輔之正酣飲,謙之闚而厲聲曰:「彦國年老,不得爲爾!將令我尻背東壁.」輔之歡笑,呼入與共飲.其所為如此.年未三十卒.
胡毋謙之は字を子光という。才能は父の胡毋輔之に及ばないにも関わらず、傲慢であることは父を越えていた。泥酔すると、いつも父の字を呼んだが、輔之は意に介しておらず、話してることがちょいと狂ってるのだとした。ある時輔之がまさに酒盛りを始めようとしていると、謙之がのぞき見て声を張り上げた。「彦国は老いぼれて何も出来ない、俺の尻を東の壁につけやがれ」胡毋輔之は楽しそうに笑い、呼び入れてともに杯を交わした。彼の行状はこのようなものであった。三十歳に至らないうちに没した。
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