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江逌伝補伝江灌伝
訳出担当 辰田 諄一
灌字道羣.父瞢,尚書郎.灌少知名,才識亞于逌.州辟主簿,舉秀才,爲治中,轉別駕,歷司徒屬、北中郎長史,領晉陵太守.簡文帝引爲撫軍從事中郎,後遷吏部郎.時謝奕爲尚書,銓敍不允,灌每執正不從,奕託以他事免之,受黜無怨色.頃之,簡文帝又以爲撫軍司馬,甚相賓禮.遷御史中丞,轉吳興太守.
江灌は字を道羣という。父の江瞢は尚書郎だった。江灌は若い頃から名前を知られており、その才能は江逌に次ぐものだった。州により主簿とされ、秀才に推挙され、さらに治中となり、別駕に転じ、そして司徒属、北中郎長史を歴任し、晋陵の太守となった。簡文帝は彼を登用して撫軍従事中郎とし、後に吏部郎に移した。この時謝奕が尚書であり、人事査定が不公正だったが、江灌は常に謹厳に職務をこなしてそれに従わなかった。そこで謝奕は他のことにかこつけて江灌を免職したが、それを受けても江灌は怨めしい顔ひとつしなかった。この頃また、簡文帝は江灌を撫軍司馬とし、篤く礼遇した。そして御史中丞となり、呉興太守に転じた。
灌性方正,視權貴蔑如也,爲大司馬桓溫所惡.溫欲中傷之,徵拜侍中,以在郡時公事有失,追免之.後爲祕書監,尋復解職.時溫方執權,朝廷希旨,故灌積年不調.溫末年,以爲諮議參軍.會溫薨,遷尚書、中護軍,復出爲吳郡太守,加秩中二千石,未拜,卒.子績.
江灌は性格は方正で、権門を蔑視するところがあったので、大司馬の桓温に嫌われた。桓温は江灌を中傷しようとして、一度侍中に取り立ておき、郡にいるときに行政に過失があったとして、追って解職した。その後秘書監となったが、まもなくまた解職された。当時は桓温が権力を握っており、朝廷は彼に媚びへつらっていたので、江灌は長年不遇だった。桓温の末年、諮議参軍となった。桓温が死んだ後、尚書・中護軍となった。更に呉郡太守となって二千石を領されたが、それを受ける前に亡くなった。彼の子供は江績である。
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