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殷顗伝
訳出担当 辰田 淳一
殷顗字伯通,陳郡人也.祖融,太常卿.父康,吳興太守.顗性通率,有才氣,少與從弟仲堪俱知名.太元中,以中書郎擢為南蠻校尉,莅職清明,政績肅舉.
殷顗は字を伯通といい、陳郡の人である。祖父は殷融といい、太常卿だった。父は殷康といい、呉興の太守だった。殷顗は性格はさっぱりとしており、才気があり、若い頃から従弟の仲堪とともに世間に名前を知られていた。太元の中頃、中書郎から抜擢されて南蛮校尉となり、仕事は清く明らかであり、行政の実績を謹んで挙げていた。
及仲堪得王恭書,將興兵內伐,告顗,欲同舉.顗不平之,曰:「夫人臣之義,慎保所守.朝廷是非,宰輔之務,豈藩屏之所圖也.晉陽之事,宜所不豫.」仲堪要之轉切,顗怒曰:「吾進不敢同,退不敢異.」仲堪甚以為恨.猶密諫仲堪,辭甚切至.仲堪既貴,素情亦殊,而志望無厭,謂顗言為非.顗見江績亦以正直為仲堪所斥,知仲堪當逐異己,樹置所親,因出行散,託疾不還.仲堪聞其病,出省之,謂顗曰:「兄病殊爲可憂.」顗曰:「我病不過身死,但汝病在門,幸熟爲慮,勿以我爲念也.」仲堪不從,卒與楊佺期、桓玄同下.顗遂以憂卒.隆安中,詔曰:「故南蠻校尉殷顗忠績未融,奄焉隕喪,可贈冠軍將軍.」弟仲文、叔獻別有傳.
殷仲堪が王恭の書を得て、挙兵してクーデターを起こそうとしたとき、殷仲堪は殷顗にともに挙兵して欲しいと言った。殷顗はこれに従わず、言うには「人臣の義というのは、その職務を謹んで全うすることである。朝廷の是非や、政治を統轄する任務は、藩屏の職務とする所ではない。晋陽のこと(註1)は、関わるべき所ではないだろう」と。仲堪は翻心するよう懇願したが、〔それに対し〕殷顗は怒って言った。「私は進むのならおまえと行動を共にすることはない。退くのなら行動を共にする」仲堪はそれを甚だしく恨んだ。殷顗はなおも密かに仲堪を諫め、その言葉は丁寧で行き届いたものだった。しかし仲堪は貴いだけでなく、平素から期するところがあったので、その望みは満ち足りることなく、殷顗の言葉を道理に背くものだと思った。殷顗はまた、実直であることから江績が仲堪に排斥されるようになったのを見て、仲堪が自分と異なる者は排除し、自分と同じ考えの者を代わりに据えようとしているのを知り、散歩に行く(註2)と称して出て行き、病気にかこつけてそのまま戻らなかった。仲堪が兄が病気であると聞き、見舞って殷顗に言った。「兄上の病気はとても心配です」殷顗は答えた。「私の病気は自分が死ぬだけに過ぎないが、お前の病気は一門を滅ぼすものだ。よく熟慮して、私に気苦労をさせないでくれ」仲堪はこれに従わず、結局は楊佺期や桓玄とともに挙兵した。殷顗はついに憂いのあまりに亡くなった。隆安の頃、「亡き南蛮校尉の殷顗は、忠義のほどが知られないまま、にわかに死んでしまった。〔顕彰のため〕冠軍将軍を贈るものとする」と詔された。弟の殷仲文と殷叔獻(註3)は別に伝がある。
(註1)桓玄が挙兵について「晉陽之師」と表現しており、これを踏まえたものか。
関係する他の伝を読むと春秋期の桓公・文公とも関係ありそうですが詳細不明。
(註2)原文「行散」。服薬した薬を全身に行き渡らせるための散歩。
(註3)実際には該当する人物の伝はない。
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