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江逌伝補伝・江績伝
訳出担当 辰田 淳一
江績は字を仲元といい、物事に対し積極的であり、秘書郎に叙任された。父親と謝氏が仲が悪かったので、謝安の治世の頃には仕官を拒否して登用に従うことがなく、評論家たちはこれを高く評価した。謝安が亡くなった後、最初は会稽王道子の驃騎主簿となり、正し諫めることが多かった。諮議参軍を経て、南郡相となった。かつて荊州刺史の殷仲堪が王恭に同調して挙兵したとき、仲堪は江績と南蛮校尉の殷に共に挙兵するよう要請したが、二人とも従わなかった。仲堪らは何度も江績に打診したが、江績はとうとうそれに屈しなかった。殷が江績に禍が及ぶことを心配して、殷仲堪のところで場を設けて話を付けようとした。江績は言った。「大丈夫たるもの、死を以て怖れることがあろうか! 江仲元行年六十歳、未だ知らないのは死ぬべき所のみである」その場にいた者はみなそれを聞いて恐れおののいた。殷仲堪は彼が堅物であることをはばかり、楊?期と交代させた。朝廷はこれを聞いて、江績を登用して御史中丞としたが、江績は役人の罪過を正すときも公正で一切曲げることがなかった。
会稽王の息子の元顕が専政を行っていたとき、元顕は夜も六門(注1)を開放していた。江績は密かにこれを会稽王道子に報告し、これを天子に奏上しようとしたが、道子はこれを許さなかった。車胤がまた、「元顕は驕り高ぶっているので、どうかこれを禁じて下さい」と言ったが、道子は何もせず黙ったままだった。元顕がこれを聞いて、人々に「江績と車胤は我々親子を中傷している」と言い、そして人をやって密かに江績をなじった。{そして圧力を掛けて自殺に追い込んだ。〕不意に元顕が亡くなって、世間の人々はこれを悼んだ。
注1 六門 宮中の門のこと。
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