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王雅伝
訳出担当 辰田 淳一
王雅字茂達,東海郯人,魏衞將軍肅之曾孫也.祖隆,後將軍.父景,大鴻臚.雅少知名,州檄主簿,舉秀才,除郎中,出補永興令,以幹理著稱.累遷尚書左右丞,歷廷尉、侍中、左衞將軍、丹楊尹,領太子左衞率.雅性好接下,敬愼奉公,孝武帝深加禮遇,雖在外職,侍見甚數,朝廷大事多參謀議.帝每置酒宴集,雅未至,不先舉觴,其見重如此.然任遇有過其才,時人被以佞幸之目.帝起清暑殿於後宮,開北上閤,出華林園,與美人張氏同游止,惟雅與焉.
王雅は字を茂達といい、東海の郯の出身で、魏の衛将軍の王肅の曾孫である。祖父の王隆は、後将軍だった。父の王景は大鴻臚だった。王雅は若いころから名前を知られており、州により主簿にされ、秀才に推挙され、郎中に叙任され、永興令になり、道理を弁えているとして世間に高く褒め称えられた。そして尚書左右丞になり、廷尉、侍中、左衛将軍、丹楊尹を歴任し、太子左衛率となった。王雅の性格は下役に対しても親切で、敬い慎んで朝廷に仕えるので、孝武帝は特別の礼遇をし、地方の役職にあるときでも、信頼されること甚大であり、朝廷の重要な問題の謀議に多く関わっていた。皇帝が酒宴を設けるとき、王雅が来るまでは、皇帝は先に杯をとることがなかった。皇帝の王雅への信頼はこのような様子だった。しかし、待遇がその才覚を超えていたことから、当時の人からは佞臣だと見られていた。皇帝が後宮の清暑殿で起きて、北上閤(註1)を通り、華林園に出て、美人(註2)の張氏と共に遊ぶに至るまで、ただ王雅のみがお供していた。(全体的によく分かりません)
會稽王道子領太子太傅,以雅爲太子少傅.時王珣兒婚,賓客車騎甚衆,會聞雅拜少傅,迴詣雅者過半.時風俗穨弊,無復廉恥.然少傅之任,朝望屬珣,珣亦頗以自許.及中詔用雅,衆遂赴雅焉.將拜,遇雨,請以繖入.王珣不許之,因冒雨而拜.雅既貴倖,威權甚震,門下車騎常數百,而善應接,傾心禮之.
会稽王司馬道子が太子太傅を務めていたとき、王雅は太子少傅とされた。その頃王珣の子が結婚し、賓客で車騎する人々が甚だ多かったが、彼らは王雅が少傅となったと以前に聞いていたので、半分以上の人々は王雅のところに寄っていった。この頃風俗は乱れきっており、潔白で恥を知るような者がいなかった。少傅の職にあると言っても、朝廷の権力は王珣が握っており、王珣もまた不公平に専横を奮っていた。王雅を用いるという内々の詔が出るに及んで、人々は初めて王雅の所に赴いた。人々が拝謁しようとしたとき、雨が降り出し、傘に入ることを請うた。王珣はこれを許さなかったので、人々は雨に濡れながら拝謁した(この部分、主語が違うかも)。王雅が高い身分になると、威勢と権柄は天下にとどろき、彼の屋敷の前には常に数百の車が集まっていたが、親切に応接し、心を傾けて礼遇していた。
帝以道子無社稷器幹,慮晏駕之後皇室傾危,乃選時望以爲藩屏,將擢王恭、殷仲堪等,先以訪雅.雅以恭等無當世之才,不可大任,乃從容曰:「王恭風神簡貴,志氣方嚴,既居外戚之重,當親賢之寄,然其稟性峻隘,無所苞容,執自是之操,無守節之志.仲堪雖謹於細行,以文義著稱,亦無弘量,且幹略不長.若委以連率之重,據形勝之地,今四海無事,足能守職,若道不常隆,必爲亂階矣.」帝以恭等爲當時秀望,謂雅疾其勝己,故不從.二人皆被升用,其後竟敗,有識之士稱其知人.
帝は司馬道子には社禝の器を支える力はなく、自分の死後に皇室が傾いて危うくなることを心配していた。そこで、時の優秀な人物を選んで国を支えさせようと考え、王恭や殷仲堪らを抜擢しようとして、その前に王雅のところを訪ねた。王雅は、王恭らにはこの世の中に対応する才能はなく、大任を任せられないと考えたので、そこで勧めて言った。「王恭は人柄は慎ましやかで、志も謹厳ですが、外戚であることによって重用されており、その性格は厳格すぎて心が狭く、包み容れるところが無く、自分の正しいと思うことを押し通すのみで、節義を守るという志がありません。殷仲堪は細かいところまで謹んで職務を行い、文名も高いですが、了見が狭く、長期的なはかりごとが出来ません。人々を統べる重任を委ね、〔政務の〕要所に携わらせますと、世界が平和ならばその職を全うするに充分ですが、人の道が常に隆盛していない現状では必ずや、単なる不当な抜擢に終わるでしょう」帝は王恭らを当時のもっとも優れた人物だと考えていたので、王雅は彼らが自分より上に立つのを妬んでいるのだと考え、王雅の進言に従わなかった。二人はともに抜擢されたが、のちに失脚し、有識の士たちは、王雅は人物鑑があったのだと言った。
遷領軍、尚書、散騎常侍,方大崇進之,將參副相之重,而帝崩,倉卒不獲顧命.雅素被優遇,一旦失權,又以朝廷方亂,內外攜離,但愼默而已,無所辯正.雖在孝武世,亦不能犯顏廷爭,凡所謀謨,唯唯而已.尋遷左僕射.隆安四年卒,時年六十七.追贈光祿大夫、儀同三司.
王雅は領軍となり、尚書、散騎常侍を歴任し、ちょうど大いに尊ばれ位を進められ、副相(註3)の重任にあたろうとしていたが、孝武帝が亡くなると、にわかに顧みられなくなった。王雅は元々優遇を受けていたが、一度権勢を失うと、朝廷が乱れて内憂外患に悩まされても、ただ言葉少なで、強いて正すことがなかった。孝武帝の在世中も、論争をすることが出来ず、はかりごとをするときにもいつもただ肯くだけだった。やがて左僕射になった。隆安四年〔四〇〇年〕に六十七歳で亡くなった。死後、光禄大夫と儀同三司を追贈された。
長子準之,散騎侍郎.次協之,黃門.次少卿,侍中.並有士操,立名於世云.
長子の王準之は、散騎侍郎を務めた。次子の王協之は、黄門を務めた。三男の王少卿は、侍中を務めた。皆忠義心があり、世に名前を知られたという。
(註1)原文「開北上閤」。閤は宮殿の意味。宮殿名だと想像したものの、正直よく分かりません。
(註2)后妃の位。
(註3)御史大夫の別名でもあったらしい。しかし晋代には御史大夫はないので、
おそらくは単純に政治の重職という程度の意味か。不明。
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